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院長ブログ

北海道開拓の父であり札幌の基礎を造った男、島義勇(しま よしたけ)をご存知ですか。

自分は生まれは釧路です。小学半ばまで釧路で育ち、小学後半から中学を富良野で育ちました。
高校、大学は札幌です。
一般に小学生で郷土とその歴史を学びます。自分は釧路に関して小学生の時に学びました。
それゆえ現在住んでいる札幌の郷土と歴史を学んだことはなく、また学ぼうともしませんでした。
ひょんなことから(ランチをしていた時に店の雑誌で知った)島義勇について学びました。
北海道開拓の父であり札幌の基礎を造った政治家です。
お恥ずかしい話ですが、今まで詳しく知りませんでした。
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島義勇は1822年文政5年に佐賀藩の藩士の長男として生まれました。
藩校・弘道館で学びます。
安政3年~4年(1856~1857年)に藩主・直正の命令で、箱館(現在の函館)奉行の近習となり、同時に蝦夷地と樺太を探検調査し「入北記」という記録を残しました。
その後しばらく佐賀藩に仕えた後、明治2年(1869年)佐賀藩主・直正が新政府の蝦夷開拓督務になると開拓使判官に就任し再び北海道の地を訪れます。
この時札幌を開拓使本府と決め、札幌建設に着手しました。
広大な平野とその立地の良さから、ほぼ無人の原野だった札幌を「世界一の都」にするという壮大な構想を描いたようです。円山の頂に立ち、その可能性を確信したとのことです。
地形が京都に似ているとの事で、碁盤目のような整然とした街並みを目指し工事が進められました。
しかし、厳冬酷寒の雪国での工事は多額の費用と労力を要し、明治3年(1870年)に志半ばで判官を解任されます。(必要経費を使いすぎたからでしょうか?)
その後は帰京し侍従を務め、さらに明治5年には秋田県の初代知事に就任します。
ところが明治7年(1874年)に憂国党の党首に担がれた島は、江藤新平らと新政府に対して佐賀の乱を起こすが敗れ、斬罪梟首(ざんざいきょうしゅ、首を斬られさらされること)となりました。
明治22年(1889年)に大赦となり名誉が回復し、生前の勲功に対し従四位が贈られました。
札幌市役所と北海道神宮には銅像、円山公園には「島判官紀功碑」があります。
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島義勇がいなければ、今の札幌はなかったと言っても過言ではありません。
当院は円山公園と北海道神宮に比較的近く、自分も昼休みに散歩へ出かけることもあります。
そこに北海道の開拓の父と呼ばれる島義勇の銅像と碑があるとは知らず、札幌を愛する者として正直恥ずかしいです。
近いうちに(もう少し暖かくなったら)、島義勇の足跡といにしえの開拓時代のロマンを感じに円山公園と北海道神宮に足を運んでみたいと思います。
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ちなみに北海道神宮の六花亭で食べることが出来る焼き菓子「判官さま」の判官とは、島義勇のことです。
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